昭和46年04月27日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「この方の道は傘一本で開くことができる。」

 簡単な御理解、「この方の道は傘一本で開くことができる」 ある時に三代金光様が、ある学院を卒業された、ある年を取った夫人の先生が、「おかげ頂きました。また卒業証書も頂きました。これからは布教にも出させて頂かなければなりません。ところが無学であると同時に、年を取っている事でもありますし、どう言う事にならせて頂いたら、人が助かるようになりましょうか」とお伺いをされた時、金光様がその夫人教師の方におっしゃられることは「親切一つあれば人が助かります」と仰った。
 「親切が一つあれば人が助かる」いかにその親切と言う事が、親切ということがいかに神様の気感に適うことかわかります。ですから、これは皆が親切心を持っております。また本当に生れつきあの人は親切だという人があります。けれども、人が助かる程しの親切とはどういう親切であろうか、親切一つあれば人が助かります、言うなら道が開けますとおっしゃった。人が助かるというのですから、人が助けると言う事は出来ません、助けるその人の心、親切というものが神の気感に適う。
 神様の心に適う、神の心に適うから人が助かるのである。神の気感に適う親切、人が助かる程しの親切というのはどう言う事であろうか、又は真心一つで助かりますとも聞いております。この方の道は真心一つで、いわゆる真心一心で、真心をもってことに当たれば、ことは成就する。真心を以て取次がして頂けば人が助かる。真心を持って商売をすれば繁盛する。真心を持ってすれば物事は整わぬことはなしとする程し。
 その整わぬことはないとか、商売繁盛するとか人が助かるとか、ことが成就する真心とはどういう、真心であろうか。いと簡単ですね真心親切。ところが実は真心を尽くしているようであっても、自分自身が助からないし、人が助かっていくことにもなってこないし、親切を尽くさしてもらい、親切を施さしてもらっているようであるけれども、金光様がおっしゃるように、いと簡単には助からない。
 「親切が一つあれば人が助かる」いと簡単な事、そのいと簡単な事の中にです、尽きぬというか、限りないものがその中に含まれておる事を分らせて貰わなければなりません。この方の道は傘一本で開ける。北野の教会のあちらの奥様が、学院で修行された時に、ある先生が「これ一つあれば人が助かりますよ」というてから絵を描いて下さった。丁度学院生スタイルの生徒が一本の傘を背中に斜めに担いでおられる絵である。布教に出られた、昔の先生方の場合には、本当にそういう方が多かったですね。
 なにもない只師匠がどこどこと言われればそこにやらせて頂いて、布教開始をなさる。実に冒険といえば冒険、無茶といえば無茶、けれども一度布教に出た限りは、それこそ後には引かれんという、いわゆる背水の陣を布いての布教である。又は前には進んでも後には退かんという、不退転の精神、そう言う様な、前には進んでも、もう後には退かれんと言う様な背水の陣を布いて布教に出らせてもらえば、やはりそこから道が開けておる。そこから人が助かっておる。
 今日はね、御道を開いていくと言う事、布教と言う事、話になっとりますけど、お互いがおかげを受けると言う事でもそうなんです。今申しますように、おかげを受けるでもね、だから親切一つあればおかげが受けられるのだ、真心一つありますと助かるのだ、不退転の心、言うならば背水の陣を布いての一心の信心があればおかげになるのだと言う事ですから、これは布教に出るとか、平の信者であるとかと言う事ではないのですね。その精神のおかげの頂ける根底のものは同じである。
 そこで結局、私どもがここでわからせて頂くことは、私の信心ではまだまだ本当の信心ではない、私の親切と思うておるのはまだ本当の親切じゃないと言う事になるのです。真心と思うておるけれども、私の真心はまだ神様に通う程しの真心ではないと。一生懸命ですといいながら、本当に背水の陣を布いての願いではないと、信心ではないと言う事になるのですから、そこのところを極めていかねばならん。
 例えば御道の信心を頂いて、段々わからせて頂くことは、先ず第一に分らせて頂くのは、天地の大恩である。天地の大恩が本当に分ったら、自分も助かれば人も助かる、天地の大恩恵の中に今日只今私がありますと、その実感が心の底から込み上げてくる程しのもの。今朝私はいつもの三時半にこの石庭に出て御祈念をします。そして天地を拝ませて頂いた後に、六、七回必ず深呼吸を致します。深呼吸をした後にまた御礼を申し上げます。これは私が一番天地の恩恵をいよいよ深く広く感じる時です一時です。
 朝のまだ真暗い中に空を仰いで天地を拝まして貰う、黒々とした大地を拝まさして貰う。私が一日の中で一番天地の大恩恵というものを実感させて頂く一時なのです。もう何もない本当に何と言うでしょうか、もう言葉には尽くされれない。天地の御恩徳と大恩恵に浴しておる。事の有難さというものが心の底から湧いてくる。それを体内にある自分の汚れた空気というかね、呼吸をさせて出させて頂いて、そうしてまた新しい空気を吸わせて頂く時に、全身に天地の神霊が、私の心の中に入ってきて下さる思いがする。
 こういう実感で、私ども日々過ごさせて頂いたら、もうどんな薬もかなわんだろうと思います。いつも例え病気しとっても、必ずこれなら癒える。いやこれならいつも病気はしない。これだけの天地と一つになれる、その有難さというものをね。だから天地の恩恵が、私が朝感じるその一時のような実感でです、天地の大恩天地の御恩恵、天地の御恩恵がわからせて頂いて、その有難いものが皆さんにもしこれが伝えられるならば、それだけで、私が助かり人が助かるでしょう。
 ところがね、私共はその有難いというものが束の間である。天地の恩恵に浴しておる。頭ではわかっておる。理屈ではわかっておるけれども、その実感というものは、朝のそれとは似ても似つかぬものになってきている。その点甘木の初代の、その頂かれ方というのは大したことであったであろうと思うのです。天地の恩恵を一生掛かりで解き明かされる程しに、内容に持っておられたというのですから。昨日私が手控えにしております、書いたものをずうっと取ってありますが。
 今度また四、五冊出来とります、今ここに上げてあったから、昨夜出来たんでしょうが、少し、ちとろくそうなとこもありますけど大体してある。ゆがんだり逆さまになっとるのもある、えらいおとりしたばいのと私は思う。そして一番初めの所にこれだけはその人の取り柄というものがそれぞれにある、それだけは貫き通したい。これだけはその人の取り柄というものがそれぞれにそれがある、それだけは貫き通したいとこう言うのである。今日わたしが申しております「この方の道は傘一本で開ける。」と。
 甘木の初代なんかの場合には、初めて御道の信心を聞かれた時、それこそ足許から鳥が飛び立つ思いで感動しておられます。今まで天の恩を聞いた事はあったけど、大地の恩をこれ程しに説かれる宗教が外に在るだろうか、知らなかった土の有難さ大地の大恩、それこそ足許から鳥が飛び立つ思いの感動を以てそれを頂かれた。初めて頂かれてそれだけの感動を受けられて、しかもそれを一本槍のようにして何十年貫かれたのですから、天地の御恩恵に対していよいよ神秘的なものにまで触れてあったに違いない。
 だからこそ枯葉一枚が、枯枝一本が、反古紙一枚がそのまま神の御姿に見えられたであろうと思います。神様を大事にする程しに、それを大事にされた訳です。だからそれで御徳を受けられた、それであれ程しの人が助かった。もう言わば貫かれたのである。皆さんが信心をさせて頂かれてです、自分の心の中に触れてくるもの。ああこれだと思わせて貰うもの。それを貫かねばいけん。
 貫くということはいよいよそれを大きなものに深いものに、もっともっと立派なものに、それが自分が助かる、人が助かる程しのところまで、私はそれを貫いていかにゃいけん。人が助かる程しの親切とはと、いつも心にああこれでは本当の親切じゃないと、赤の他人の誰かれにでも親切を施すが、自分は親切と思うておるが、果たして親切とは、親が子を思う切なる心と書いてある。その親が子を思う切なる心がです、信者一人一人の上に、赤の他人の一人一人の上にでも表されているであろうかと。
 と言う様に究明して参りますと、自分の親切のお粗末なことに気付かせて貰うて、いよいよそこんところに取り組ませて頂かねばおられなくなってくる。真心において然りである。真心一つあれば助かると仰せられるのに、助からないところを思うただけでも、自分の真心がどの程度のものかと気付かせて頂いて、おかげを頂かねばいけません。真心一つ、親切一つ天地の大恩一つ、それをわかればおかげになる。
 いわゆる、傘一本で開ける道、いと簡単に、例えば私どもの神様に向かう止むに止まれん勇猛心とでも申しましょうか、元気な心とでも申しましょうか。この有難い神様を奉斎して布教に出る、何もないところに、信者が一人いるわけじゃない、知った人があるわけじゃない、そういう中に言わば何もない、言わば無一物の中からです、自分が助かり人が助かっていく程しのおかげを頂いてもらわねばならん親切、そういう真心、それが傘一本に托されて布教に出る。
 しかも心の状態というものは、もう死んでも後には引かんという不退転なもの、いわゆる背水の陣を布いての門出であると言う様な。成程そう言う事にならせられるその時、道が開けるであろう、自分も助かるだろう、人も助ける事が出来るであろう。お願いしとるけれどもお願いを聞いて下さらなかったら、また他の手を考えようと言う様な、なまぬるいものじゃない。
 昨日は各地区で選挙の選挙開きがあって、当選した人は喜び落ちた人は悲しむ、まあ悲喜交々の状景があちらこちらで沢山あったと思いますが、ここでも私は何十人かのお取次させて頂きましたが、おかげで皆んな友達のおかげを頂いた、その中に総代の堤さんの場合がもうこれで二期目である。今度の場合も御神意を伺って欲しいと言う事であった。一番初めから出らんが良い、止めたが良いと言う事であった。それでも何回も何回も繰返しお願いがあった度に、「もう止めたが良い」と。
 しまいにはもう語々荒らにして、そういうふうにお取次させてもろうた。これはもう自分だけではいかんけんで、息子にもお届けさせた。家内にもお届けしてもろうた。信者仲間の中村さんにも、もういっぺん親先生にお伺いしてくれと言うて。大体はいかんけれどもね、けれどももう一期だけはどうでも勤めさせて頂きたい、これはもう止むに止まれん。それは本当に世の御役に立ちたい一心から、どうでもこうでもと言う事になってきた時に、初めてお許し頂いた。
 ですから日々のお取次を願われるのも実に真剣でした。「どうぞ当選のおかげを頂きますように、世のお役に立ちたい一心でございます」とお届けされると、もう涙がこぼれてくる程しの一心であった。いかに神様が「いけん」と言われてもですね、その位に私は一心を以て貫かせて行くなら、勿論御信者さん方のお祈り添えもあって、おかげを頂いて当選のおかげを頂いたが、二十人余りの中の一番ビリで当選されました。しかも何票の差である。私はそれを聞かせてもろうた時に、おかげを受けたと思ったですね。
 神様がいよいよおかげの実感、どうでもこうでもお役に立ちたいの一念が、今度の出馬と言う事になり、それでも御神意はいけないけれども、氏子の願いというものは一心、貫いておられる。どうでもと言うとる。死んだなら良かたい、また買おうたいというのではなかったと言う事。家族を挙げられての願いであり、またそれを取巻く人達、また信者友達の方達も一心、そこんところにならして行かれた。私はね願いというものにはそういうところがなからにゃいかんと思う。
 お取次頂いとるから後はねもう神様任せ。成程そうなんだこれはもう一番素晴らしいことなんだ。けれどもそこまでの達感が出来んとするならね、どうでもおかげ頂きたいと思うならね、今の堤さんの行き方が本当だと思う。もう初めからねお取次頂いての事であるから、右左はもう神様にお任せした。これならもっと素晴らしいでしょう。けれども一念を燃やすというか、どうでもこうでもという時にはです。それも筋道を立てて世のお役に立ちたいその一念がです、お縋りという時になってくる時におかげになって。
 実を言うたら、本当は今度は当選できないことになっているのだけれども、氏子の願いが一心であるところに、その印を何票かの差に見せて下さったと私は思う。だから一番で当選したよりももっと尊い、もっと神様のいよいよ、手を煩わせたおかげであるというふうに思うて、いよいよ有難いと思うた。だから一心に頼むというても、中々それはやはり広い、深い。「傘一本で開ける」というと簡単に言っておられるけれども、「真心一つ」と言うておられるけれども。「親切一つあると人が助かる。」と
 言われるけれども、その親切が止むに止まれぬものに段々なって来なければです出来ん。しかもそれが一生涯その人の信心の筋金になることでありましょう。これだけを私は無学で何も出来ません、それでも親切一つあれば助かります。学問はありませんでも良いですと金光様は言っておられます。恐らくそのお婆さんの先生はいよいよ親切と言うものの追求を一生涯続けられたに違いありません。ですからそれを申しますと、実に金光様の信心とはいと簡単な、親切一つあれば道が開ける。
 お互いにそれぞれの個性がある、信心性格もそれぞれ違う、だからこれだけは自分のものを、これだけは自分の十八番と言うた様なものをです、それを私は貫くと言う所に、お道の信心はあると思う。千匹の螢を集めたところで、それはぼんやりとした、神の心を貫くような、神の心に通う様なものにならん、ぼんやりとした信心が何10年続けられても。けれども一本の線香のような火であっても、それこそ触れば、アッと言う様な、そういう信心であれば神(紙)の裏表を貫くことが出来るでしょうが。
 線香の火を紙に持って行きゃそれを貫くことが出来る。漠然としたぼんやりとしたものであるなら、神様の心に通うとは思われない。段々信心のおかげを受けて、力を受けて神様の一分一里間違いのなさというたようなものを感じさせてもらえる、日々の体験の中にもう段々そこんところを感じさせてもらえる。あぁ神様は間違いないなあ、と良しにつけても、悪しきにつけても間違いがないなあと。そこから生まれてくる安心、この神様に御縋りさえしておけば言わば大丈夫という安心。
 信心に依ってしか生まれてこない安心。そういう安心の心を、私どもが頂かせて頂いたら、これはもう絶対のこと。本当言うたらこの傘一本と言う事はね、安心一つと言う事なんです。お互いが信心に依って、どのような場合でも安心の心を頂いたら、安心という傘を持っておったら心配はいりません。道は開けます、人は助かります。自分は勿論助かっていくというのでしょうね。
 どんなに曇って参りましても、一本の傘を持っておれば、空を仰いで心配せんで良い、降っても濡れんですむという自信がありますから。暑ければ、開けば暑い思いをせんでもすむ。その一本の傘をです、信心でいう安心と言う事に繋いで考えて参りますと、この安心一つあればどこへ行っとっても安心だと言う事なんです。心配がないとまでに神様を信じて疑わない心、これは本当の意味で傘一本でしょうけれども、中々そこを頂くことのためにお互い精進しとるのであって。
 そういう安心の心というものが、そうすぐ簡単に頂けるとは思いませんけども、そこを目指すのであります。そこで私どもが、先ず手始めとして、自分の持っておる真心のすべてを神様へ、一心の真を表しての信心と言う事になってくる。しかもそれは限りない追求をしていかなければならない。自分の心にある親切心というものをです、いよいよ高めて行かねばならない。そして神様が使われるであろうと思われる程しの親切。それを具体的にいうと、親が子を思う切なる心。
 どうしてもこの人が助かってもらわねばならんというのが我情我欲じゃない。ただ親が子を思う一念、そういう親切を目指しての願い。覚えようと思えばすぐ覚えられる。「この方の道は傘一本で開ける」もう皆さん覚えてしまったでしょう。そんなに簡単な御理解ですけども、まだ私が感じておることをお話しするなら、まだまだ限りがないことでありましょう。この傘一本、開けると言われる傘一本とはどういう意味のものか、それをお互い日々の信心によって、言うならばその傘一本を目指して信心しておるというても過言ではない程ですよ本当は。
   どうぞ。